こだわりたいあなた

 

だらしない女の子の話です。

23時を回った頃、宿泊先のホテルから玄関を出るところでばったり他部署のチーフに出くわした。
少し前喫煙所で一服する姿が遠くから見えていたので、吸い終えて部屋に戻るところだと容易に想像がついた。
あの頃私はどうしようもなく甘ちゃんで、何をするにも一人は嫌だった。だから、誘った。
私も今から一服するんです。一緒にどうですか。

冬の夜の外にある喫煙所には誰もいなかった。それぞれの煙草に火をつける。会社の喫煙者のほとんどは加熱式電子煙草に切り替えていたけれど私はさつまいものようなあの独特の匂いが苦手で、今も紙を燃やしていた。ジュッと摩擦するヤスリライターの音が心地よい。
チーフも数少ない紙巻煙草派で、それぞれの銘柄の匂いが混ざる。
近況を軽く話す。チーフは入社研修のときにお世話になっていたので、たまにこうやって話す。今日は社員旅行で久しぶりに顔を合わせた。

不意に視界が暗くなった。吸っていた煙草はいつの間にか取り上げられていて、私の思考は停止した。背の高い影がかかる。

あたたかい柔らかな圧力が唇にかかる。急な出来ことに驚きつつも感触が気持ち良い。

え、
目をつぶったきれいな顔を横目に、後ろの壁をぼんやりと見つめ思う。

呆然としていると悪戯な顔が笑う。
「あれ?ちがった?」
私は曖昧な表情で笑った。ちがう。と思ったがそういうことにした。
私はいつもそうだった。嫌われるのが怖いので、事実でないことも事実かのように振る舞ってしまっていた。
流されやすいというのは嫌われたくないことなのかもしれない、とぼんやりと思う。
「てっきり寂しいから誘われたんだと思った」
一人で吸うより誰かと話したいと思ったのは事実だが。
「えと、久しぶりにお話したくて…」

へらへら答える。
チーフには菊地亜美に似たギャルの奥さんが居たはずだが、様子から察するに手慣れているようだった。まぁ、いいか。そっか。面倒くさがっている段階で多分私は思考停止している。

「ドライブでも行く?」
煙草を吸い終えると、車とってくるねと一言残し姿が遠ざかる。私は浮気がしたかったのか。そもそも色恋は頭になかった。相手は既婚者だ。小顔で高身長だなと思ってはいたが、異性としての好意を寄せているわけではなく、そもそも不倫という行為は私の倫理観に反する。それを向こうからいともたやすく越えられてきてしまった。
そして超えられたとき私は弱い。それを断る頑なさを持ち合わせていない。私という人間の形は曖昧で軸はブレブレだ。
違います、やめてくださいと突っぱねるべきだろうなぁと思いながら、それをしない自分を客観視している。寂しく既婚者に言い寄ったクソビッチ?ひどく滑稽。前もこんなことがあった気がする。まっとうに人と関わる労力を面倒くさく感じてしまう。結局は私も共犯なのだな。それを受け入れている段階で。角を曲がってきたヘッドライトの光が眩しい。

小一時間ほどのドライブから戻ると玄関で別れた。本当にただのドライブだけだったが、気疲れがひどい。もう一服しようと再び外へ出る。
喫煙所には先客がいた。同期だ。チーフと同じ部署にいる。
「おつ」
同期はとっくにiQOSに切り替えたようだ。私は相変わらず紙巻煙草に火をつける。
同期が不意に口を開いた。
「菊地さん?」
どきりとした。チーフも菊地という名前だった。
「え?」
平静を装ったつもりだったが私の反応でわかったらしい同期は続ける。
「いつものことだから。あーいうひとだってのはみんな知ってるし」
「あ、そうなんだ」
「やっぱりね」
否定しなかったことで確信を得たようだ。
「ついこの間も電話口で奥さんの怒鳴り声、めっちゃ響いてたし」
「え、そんな感じ?」
そもそも隠すつもりもない開き直ったタイプだったか。手慣れている様子からバレない自信があるのだと思ったが、見誤ったか。
「今回のことも知れると思う?」
「どうだろ、今さらいちいち誰も気にしないだろうけど」
同期はどうでも良さそうに投げやりな返事をしたあと興味を失ったようにスマホに視線を落とし、それっきり黙ってしまった。
途端に憂鬱になった。客観視し直すと私は遊び人とわかってる既婚者に言い寄ったドぐされビッチじゃないか。私は誰でもいいのか。寂しがりやがすぎる。
いや、誰でもいいのか。だから拒否できないんだろうな。この人でないとという拘りがない。みんなが持っていて私が持っていないもの。いつかほしい。”こだわりたいあなた”というものを持ってみたい。

ちょうど三年ほど経つ。今は会社をやめてしまった先輩。飲み会のあと「遊ぼっか」と無邪気に言う先輩の笑顔を断れず、ずるずる先輩の家まで手を引かれてついていったことを思い出す。
曖昧な笑顔がはりついて私はすっかり石仮面だった。憂鬱だが、断って関係が悪化するほうがより憂鬱だと信じて止まなかった。
先輩のことは本当に尊敬していて、素晴らしい人だと思っていた。その人は、社会人になっても勉強家で、将来のことも見据えて生きているところに憧れた。自分の意見を持とうものならあらゆる勢力に攻撃されるこの会社でもはっきりと意見を述べるところを真似したいと思った。
休憩中に会社の内部事情を教えてもらったりと話すうちに定期的にご飯に行くようになった。
ワンチャン狙いのヤリモクなんじゃないのぉと間延びした声で友だちは何度も聞いてきた。
そんなんじゃないって。ただ一緒に煙草を吸って、コーヒーを飲むだけだよ。ていうか男女二人と見ればすぐそうやって判断するのは私にも相手にも失礼だからね、と怒ったこともある。
実際何度か二人きりで遊んだものの色気のある展開にはならなかったし私はそれが心地よくもあった。開店凸から12時間コースでカラオケに行ったりもした。浅く広い音楽の趣味が絶妙な具合に一致して、中々盛り上がったと思う。

ご飯に行くようになって半年経った頃、内輪で忘年会の話が持ち上がた。いつもは私が車を出していたが、今日くらい飲もうと言われ車で迎えに来てもらい、先輩の家に車を置いてから居酒屋まで歩いて向かう。もう一人の同期は既に居酒屋にいて、乾杯も待たずに一人で始めていた。おいおいーそれはないんじゃないのと先輩が笑いながらハイボールを頼む。未成年のくせに飲酒と喫煙を覚えた彼はあっという間に酔ったらしく、まるで真っ赤な茹で蛸みたいだったので、二人で彼を家まで送った。
コンビニでアイス食べませんかと言ったのは私だ。飲み会終わりのセブンのカフェラテとアイスは私にとって欠かせないのでいつもの調子で提案した。それが良くなかったのかな。帰りたくないように見えたのかな。

あの日の先輩が振り返りながら笑う。だって寂しかったんでしょう。見ればわかるよ。隙が違うから。そんなに物欲し気にわかり易く誘ってるのはそっちだよ。俺は別にどっちだって良かったんだから。
ね、自業自得でしょ。
まるで私を責めるかのように。

iQOSを吸い終えた同期が吸い殻を捨てる。カンカンと本体を灰皿のヘリにぶつけ、中に残った煙草の葉のカスを落とす音で現実に引き戻された。
私今も同じことしてるの?自己嫌悪を超えて呆れに変わってきた。いい加減思考停止はやめよう。脳みそが冷えたみたいだ。
まずは自分の生活に向き合って、自分自身に向き合って。半端な人たちとの連絡は絶とうか。そんなことからで変えられるかな。25年染み付いたこの性格が少しはマシになれるかな。一抹の不安とともにすっかり短くなった煙草の火を消す。
次は断れるかな。断るんだ。面倒かもしれないけど、憂鬱でも、今のままは嫌だから。そうした積み重ねで少しずつ自分を好きになるんだ。

うーんと伸びをしてみる。深く呼吸すると冷たい空気が肺に満たされる。体の隅々に筋肉があることを実感する。私の体も心も大事にできるのは私だけだ。

 

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