地獄で見たもの

 濡れ光る背中。躍動するたびに粒が散った。くらくらするほど照明が眩しい。

「綺麗……」

 汗を美しいと思ったのは初めてだった。むき出しの皮膚の下で筋肉の動きがよくわかる。男の人の裸の背中が同時にたくさん並んでいるのを、こんなに踊って動くのを見るのは初めてだと思った。熱気で視界が霞んでいる気がした。

 観客の熱量に圧倒され呼吸を忘れそうになる。ふと我にかえり慌てて息を吸うと酸素が薄いことがわかった。初めて行くライブハウスは思った以上に狭いハコで演者との距離が近く、最前列で飛び跳ね踊り狂う観客たちは一人また一人とTシャツを脱いだ。

 イベントのタイムスケジュールが押していて目当てのバンドの一つ前の出演者が演奏中だった。今回の対バン相手は誰も知らなくて、応援しているバンドだけ見てサクッと帰ろうと思っていたので、正直面食らった。全然毛色が違う。場違いなところに来てしまったかもしれない。この客層で自分が推しているバンドの番になったらどんな空気になるんだろう。とにかくすごい空間だった。

 無理矢理心臓を揺らされる。低く重い音は私の臓器を殴り続けた。ボーカルがマイクに叫ぶたび、最前列の観客もマイクに顔を寄せ煽った。あぁ、この生感。こんな世界があるらしいことを知ってはいたが私が生きているうちに現場に立ち会うとは思ってもみなかった。鳥肌がブワッと立ち、ゾクゾクと興奮した。

 チラリと横を盗み見る。私が誘った友人はポカンと口を開け真顔でそれを見ていた。……どう思っているんだろうな。正直緊張した。好きなバンドが出るんだよね、ライブパフォーマンスが最高だから一緒に行かない? そう誘った。どんなバンドなの? ポップで平和な感じかなぁ。これでは誘った私がまるで嘘をついたようではないか。引いてなければいいなと願った。

 扉すぐ近く、後ろの方に立っていたが狭いハコなので私たちはなんだかんだ前から数えても四列目くらいの位置にいた。最前列が近い。でも二列先はスクリーンを挟んで見ているかのように感じられ全く別の世界のようだった。その二つの世界が混沌と存在しており「地獄」というイベントのタイトルそのままの世界が小さな一つの部屋に広がっていた。最高。極楽のような地獄、上等じゃないか。食らいついてやろうじゃんという気になる。観客に煽られたボーカルもまた観客を煽っていて、私はしっかり煽られた気になっていた。

 


「いや〜、最高でしたね! こんなハコがあるなんて知らなかった」

「存在は知ってたんですけど入ったのは初めてで、正直面食らいました。でも楽しんでくれたならよかった」

 何分間かもわからぬままあっという間にそのバンドの出番が終わった。手にしていた酒は空になっていて、体のために煙草へ火をつけた。

「一本もらってもいい?」

「もちろん」

 友人に小声で尋ねられ、廊下で並んで煙草を吸った。友人も喜んでいたことがわかりで内心ほっとした。

「……飲みましょう」

「飲みましょう」

 ゆっくり一本吸い終えるとひとまずドリンクブースへ次の酒を取りに向かう。高揚感。流し込みたいだとか消化したいとは違った。高揚感と一緒にありたかった。友人も同じ気持ちのようだった。

 


 ちびちびとお酒に口をつけながら、おずおずと申し出た。

「あの、本命は割と前で見たくて」

「あ。じゃあ早めに入っちゃう方がよさそうだね」

「いいですか」

「もちろん」

 友人は初めてのライブなのに一緒に前についてきてくれた。メンバーは楽器を並べ始めている。推しの前を陣取るの、きもいかな。と思いつつ、遠慮して目の前で見れないのは嫌だった。他の用事もあったとはいえそれなりの交通費をかけてきているのだ。ごめんね、目の前でやりにくいよねと心の中で推しに断り右端最前列に立った。

 先程のバンドでは端や後ろで少し揺れていた人達が今回は積極的に前に出ていた。反対にTシャツを脱いで最前で汗を流し踊っていた人たちは紛れてしまってどこにいるかもわからなかった。客層がきちんと入れ替わり少しホッとした。でも客に煽られながら演奏するところも見てみたい気持ちがあって、少し残念な気がしたのも本当だ。

 


 トリを飾ったのはイベントを企画したバンドだった。

「俺は音楽を諦めること諦めたからみんなも諦めるの諦めよう」

 そんなMCが印象的だった。イベント告知では呼んだバンドをどうして呼んでこの順番にしたかという文章を丁寧に綴っていて誠実な人なんだろうなと思った。その通り実直でいい歌だった。

 ライブもおおよそ終わりが近づいていた時のことだ。

「俺がこいつと組んでいて目標があったんですが、それはこいつに恋人ができることなんだけど。……報告があるんだよな?」

「人生で、初めて彼女ができました!」

 突然の報告に現場はうぉぉぉと湧いた。するとちょうど隣に立つ友人の前、つまり私の斜めに立っていた観客の挙動が不審になりだした。外していたマスクをし、壁際まで逃げ、カメラマンをしている女性にくっつくようにし顔を隠す。カメラマンの女性がよしよしと頭を撫で「よかったね」と小さくつぶやいたのを見てようやくその観客が彼女だとわかった。

 周りの観客は気にも留めていないようで友人と私だけが目を合わせワンシーンを共有した。いやいやと首を振りながらでも嬉しそうに泣くその彼女は本当に綺麗だった。気づいてごめんね、素敵な場面に立ち合わせてくれてありがとう。二人の幸せを心から願った。

 

 

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